my cognition

Cognitiveはよいぞ。電波伝搬はよいぞ。

感染症下の環境における食事に関するストレス

約1年半前から山芋が食べられなくなった。アレルギーが出たとかではなく、山芋を食べることによる、後で「山芋を食べたから感染症になったのではないか」と考えることが苦痛だからだ。これは山芋に限った話ではない。自然由来で、加熱、冷凍をしない、すりおろすだけのような食品、例えば、大根おろし、自家製バナナジュースなどもそうだ。

これらの食べ物は、消毒やという工程を通らずに口に入る。そのために、菌が付着していたとすれば、どこでそれが起こってしまったか。生産場所なのか、スーパーで人が触れたからなのか、まな板や包丁か、おろし器か、様々に考えが行ってしまう。食べ物を洗うというのも一つの手だ。しかし、洗った際の効果がどれほどなのかわからない。水洗いだけだと菌が残っているままなのかわからない。そして、それを扱う手は毎度洗浄、滅菌しなければならないという理屈になる。さらに、洗うという行為は食べ物の味を落とす場合がある。これも苦痛である。

これらの食べ物は昔から嫌いではなかった。むしろ好きなものだ。そういったものが積極的に条件に該当してしまうのだ。そしてこの状況は、凄まじいストレスと、副次的に金銭的にダメージを与える。

好きなものを食べられない、または警戒して食べなければいけないということ。それだけで、美味しかったはずのものがあまりうま味なく感じてしまう。食事の際にも小分けにするなど、ほんの少しであっても、時間がかかる。細かいことに気を配る必要がある。それを1年半続けても、未だに慣れない。

そして、そういったストレスから解放されたいがために既成品を購入し、食べる。これは当然の思考ということは受け入れられると思う。例えば、レトルトカレーなら、袋の中に入っている内容は滅菌されているので、後は手をしっかり洗って、熱湯であたためて、綺麗にした皿としゃもじを使えば美味しいカレーが食べられるからだ。そこまで細かいことを気にすることはない。

それを1年半、少なくとも昼食はそのようにしていた。自然と、自分でも作らなくなり、人が作ったものを警戒するようにもなった。感染源の多くは経口と言われているからだ。

私ほど、食事のことに警戒していないことがさらにストレスになる。先日、テレビでお店へ訪問し、芸能人数人が一つの皿を囲んでしゃべりながら食べるというものを目撃してしまった。自分には関係ないことだが、人はこのようにしていても特に感染しないのだろうと思えてしまう。自分がバカに感じる。

多分、私はバカなんだと思う。そんなに警戒しなくても人は感染症にかからないし、無駄な努力を1年半続けているのだと思う。

そう感じることも、全て感染症のせいなんだ。

全て、感染症が悪い。

きっとそうなんだ。